Hasta mañana! また明日

カオスな思考を整理して自分再構築中。ブログタイトルはスペイン語で「また明日」の意味。


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母娘も民族間も、お互いを認め合うことの大切さと難しさは同じ

私にとって母親は、大事に育ててくれた恩人であり、趣味の影響を受けた尊敬する女性であり、楽しい時を共に過ごせる友人です。

 

その一方で、母親とのコミュニケーションが苦しくてたまらない時がある。強い怒りと悲しみで心がいっぱいになってしまう感覚というのか。

母との距離感 - Hasta mañana! また明日

 

子が大人になっても過保護・過干渉・否定形のオンパレード

親心からくる心配の延長だと頭では理解できても、意見や価値観や人格や友人までも全否定され、行動を制限され、理不尽に声を荒げられながら育ったのも事実。

 

幼い頃は、親に見放されたら生きていけないという子どもの本能で母親の機嫌を損ねないように反応を見ながら生きてきました。実家の中に響く母親の足音が昔から怖くて、それは今も変わりません。

 

大人になってからは大人同士の付き合いができるのが理想です。一人の人間として認められたいし、心配よりも見守っていてほしいし、母親自身にも自由に生きていてほしいと願っています。

 

しかし今年1月に海外一人旅でカンボジアを訪れた時、母親は私のSNS投稿を見て心配になった様子で「心配である」という旨の連絡を寄越してきました。「楽しんでるんだね、でも心配だから気をつけてね」と言うならまだしも、「心配だ、何してるんだ、そんな所で」という連絡を受けた昼下がりのカフェ@カンボジア。

 

せっかくの初海外一人旅、自立した女性なった自信と解放感に浸っていた意識は一気に引き裂かれ、憎しみと怒りと悲しみと罪悪感でめちゃくちゃに。

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私のこの欲求は決してワガママなんかではなく正しい感覚だと信じて、関係改善を何度も試みてきましたが、物理的な距離が離れて暮らしている時はまだしも、母親と一緒にいる時間が長くなると会話にならないコミュニケーションに過大なストレスを感じてしまい体調不良を来たしてしまうほどです。

 

しばらくのあいだ実家で過ごす選択をした理由

そんな母娘関係ですが、スペインビザを取得して出国するまでの期間は実家の世話になることにしました。おそらく両親と一ヶ月以上寝食を共にすることになります。

 

こんなコミュニケーションに難のある関係なのに、なぜそのような選択をしたのか。その理由は母親との拗れた関係を解消して心軽く旅立ちたいからに他なりません。

 

けれどそんな思いで実家で過ごす選択をしたにもかかわらず、一週間も経たないうちに心はストレスでボロボロに。

 

なんでもない日常会話なのに、私も言い過ぎてしまう、母親も余計な一言で追い討ちをかけてくる。そんなコミュニケーションを続けていたら生まれ育った家を逃げ出したくなってしまう。耐えなきゃ、耐えなきゃ、耐えて拗れた母娘関係を解消しなきゃ。そう思って耐え続けてきたけどついに限界に達し、夜中眠ることができず、気づいたら「母と娘のしんどい関係」という本をKindleにダウンロードしていました。

 

心軽く旅立ちたいのは子ども側の事情。親はいつまでも関わっていたいものらしい

結論から言うと、この本を読んでよかったです。「親に私のことをわかってほしい」と願うのはやめようと思えるようになったから。

親も一人の人間。30年以上分かり合えなかったのに、今さら「私の気持ちをわかってほしい」なんて一方が思ってもムダなことであるという考え方に納得しました。

 

本書の中の「母親はなぜ、こんなに小言を言うのか」という章に、このようなことが書かれていました。

どうして正論をかざしてきつく言ってくるのか。そこには、自分がはっきりと自覚しているものとは異なる「無意識の目標」があります。それは、「人と接していたい」という欲求です。

 

不必要な程にキツイ言葉で感情を逆撫でしてくる母親の態度にはウンザリでしたが、娘と接していたいだけだったのかと思えると一歩引いた視点で母親を見ることができる気がしてきます。

 

自分の血肉を分け、生死をかけて出産し、人生をかけて育てた娘から「私は次のステップに進むからお母さんとの関係はキレイさっぱりにして身軽に飛び立ちたいのよ、私の気持ち分かってほしい」なんて言われたら(実際には言わないけど態度でそう感じたら)、寂しくて離したくなくて何か大きなモノを失う気がしてたまらないのでしょう。

私は出産していないので、母親の本当の気持ちを想像することは難しいですが、もしかしたらそんな気持ちなのかなぁと感じます。

 

私も自由、相手も自由。

母ばかりが悪いような一方的な書き方をしてしまいましたが、私自身も心の中に留めておけばいい事をつい口に出してしまったり、母が少女のように楽しそうにする姿を見ると嫌悪感を抱いてしまったりします。

 

しかし本書の中にあった以下の言葉を読んで、「母親を心の底から認めたい」と思えました。

 

「お互いを認め合う」ことは、次のようなお互いの「自由」な関係で可能になります。

相手がどういう考えを持っていても、自由。

どういう行動をしても、自由。

どういう生き方をしようが、自由。

もちろん、その自由には責任が伴うし、また、どんなに自由であってもそれが相手の自由を侵害するものであってはねらない、という前提があることは言うまでもありません。

 

本当にその通りです。

母親が毎日お酒を飲もうと彼女の自由。

大きい声で話すのも彼女の自由。

少女のようにはしゃぐのも彼女の自由。

 

ただその行動が家族や誰かの自由を侵害してしまったら、そこはきちんと伝えようと思います。

 

お酒を飲んでも翌朝は家族の誰よりも早く起きる母。家事はきちんとこなしやることはやって「自由」にお酒を飲んでいるだけ。だからそこに私が口を出すのはやめます。

 

大きい声で話すのも自由。ただ、話してるのに同時にテレビの音量も上げられては頭痛がしてしまうので、その時には「テレビ見てないなら消していいかな?」と聞くことにします。

 

少女のようにはしゃぐのはもちろん自由。時折自分には興味がないネタで母が盛り上がり共感を求めてくる時には、「そうなんだね」と母の世界を否定せずただ受け流すことにします。

 

 

言うのは簡単ですが、実行するのは難しい。しかし、前述のような自由を相手に認められていないからこそ、親子の間にさまざまな問題が起こっているのです。

親は親なりに、子どもは子どもなりに、問題を解決しようとしてきたことでしょう。ですが、問題を解決しようといくら頑張っても解決できないとしたら、その「解決方法」が適切ではないと言わざるを得ません。

(中略)

認めるべき相手の「自由」を、自分が“心から”認められているかどうかを考えてみてください。

 

これは、母と娘のコミュニケーション以外にも言えること。夫婦、友人、同僚、上司、異文化のひとたち、世界中のひとたち。私は相手の「自由」を心から認めているのだろうか?

 

これから異国の地で生活を始めようとしている私は、日本とは異なる文化や習慣、サービス、考え方などにたくさんたくさん触れることになるでしょう。

 

そのような世界でしなやかに生きていくための修行の第一歩として、まずは一番身近な「母親」を認めることが試されている。そう感じます。

 

そもそも私がブログでカオスな思考を整理しようと思ったきっかけは、母親との会話ストレスに端を発して、「何よりもまず私に足りていないのは、自分の考えや情報の伝え方、受けとり方の感性を高めることだと感じた」ためです。

カオスな頭の中を文章化することにした - Hasta mañana! また明日

 

それから約2年。一周まわって?それとも堂々巡りに?いまだ同じことを考えていますが、2年前と今では様々な状況が変化しています。

 

私が人生の節目に差し掛かるときは、いつも何かが母親を通じて大事なことを教えようとしてくれているのかもしれません。